じぶんだけのしあわせ。

〈はじめに〉

むかーし、むかし、あるところに、ネガテイブなことばかり言うコビトがいた。ビトはブスだから、ビトは背が低いから、ビトは選ばれない側にいるから、ビトは何もかもに恵まれなかった、と。だから、ビトは不幸だ、と。

〈問題提起〉

しかし、本当にそうなのだろうか?

体外から幸せを吸収できるのではないだろうか。例えば、美味しいものを食べることや、好きなアーティストの音楽を聴くこと、ダンスや演劇を観ること、花や石鹸のいい香りを嗅ぐこと、そして、眠ること。

もちろん、可愛くないとか選ばれないとか、その他諸々のマイナス思考の原因を根底から解決してくれるわけではない。

だが、体外から優しさを吸収することで、心の居場所が作られるのではないだろうか。生きやすさを感じられるスペース(ゆとり)が生まれるのではないだろうか。

〈さいごに〉

自分を取り繕って明るくいてほしいとは思わない。自分は自分でしかない、自分の道は自分で選ぶ、他者の助言は取り入れない、という構えでいい。つまり、不幸だと感じる世界の中に、どこか生きやすさを感じれる世界に巡り合えることを知ってほしい。私はまだ知らない。

自分でも何言ってるの分かんないけど、分かる。

人は色々な姿のアイデンティティを持っています。それは、学校だと生徒の私、家だと息子の俺、ネットだと元気な僕とか様々です。自分のアイデンティティの全部を他者に理解してもらうのは不可能です。だって、学校の先生が、生徒個人の家庭内のこととか、ツイッターのアカウント数とか、インスタの投稿内容とか把握しきれないでしょ。でも、そのどれか一つでも自分のアイデンティティを友達に開示しなかったら仲を深められない気持ちになってしまう。私は、開示されなくても仲良くなれると思う子もいるし、そう思わない子もいる。

仲良くなれるって感じるのは、全くの他者と関わりを持つことの解放感を得るためのアカウントがある人。仲良くなれると思えないのは、自分を隠すために知人との出会い方、場所、時期によってアカウントを使い分けてる人。そんなことされたら、私が仲良くなりたいって思ってても、これ以上踏み入ったらダメなんだ、って気持ちをセーブしてしまうからだ。

でも、他者に全てを知られることが怖いのも分かる。否定されそうで怖いからね。でも、それじゃ寂しいみたいなところもある。でも、あー、もう、何なんだよ。訳わかんない。何が言いたいんだろう。

閑話休題、このブログを読んでる、messアカウントを知ってる友達は、肯定感情で私に接してくれるから全部見せても大丈夫って勝手に思ってます。そんな友達が1人でも居れば、それでいいって話ですね。まとまりました。

黙るが清し。

人の悪口は言った分だけ言われるって身にしみて感じたはずなのに、すぐに流されてしまった。せっかくの成長が水の泡になってしまった。それで、笑いが生まれるならって悪意はないけれど、人によっては嫌な感情になってしまうかもしれないことを言ってしまった。

自己嫌悪は、自分のことを把握するために必要なものだから背負っとけって言ってくれたあの人、今頃なにしてるんだろう。今ではもう何の関わりも無くなってしまった人が何気なくかけた言葉に何度も救われてて、一期一会に感謝した。

笑いに貪欲になって、調子に乗りすぎて悪態つくのも悪口っぽいこと言うのも辞めようと思います!!だって、人の悪口って言った分だけ自分も言われるからね!!好かれなくていいから嫌われたくない。無関心で頼みます。

凡人。

褒められてばかりいると、自分がこの世に存在しているのか分からなくなる。本当にいいと思ってくれてるのかどうか分からなくなる。どんな作品だって、ここがこうならなぁとかクレーム付けたくなるし、完璧に自分の心にフィットするなんてそうそうあり得ない。だって、自分で作ったもの以外に軽々しく愛着なんて湧かないから。でも、実際、貶されたりなんかしたら商売としてやってるわけじゃないし!ってムカついて拗ねちゃうと思う。んー、人間って難しいなぁ。『大人になることとは、曖昧さを受け入れること』…らしい。だから、優劣の評価に対しての自分の受け止め方とか感じ方とか曖昧でいいのかもしれないね。自分が優劣を決めて、それだけを軸にすればいいのかもしれないね。でも、それじゃ満たされないんだよなあ。

褒められるたびに「これ(自分の選んだ道)でよかったのかなあ?」って困惑したりとか、「次もまた同じこと言ってくれるかな?」って不安になったりとか葛藤するけど、たられば論ぶちかまして、自分のこと正当化して、しょうもない人生送ることになるんだろうね。

挑戦するのが怖いのか、それとも…なんだろう。何に挑戦すれば良いのか分からないから、こんなにモヤモヤするのかな。何か作品を作るたび、作ろうとするたびに泣きたくなる。モヤモヤで。

“青春”依存症_。

「長いものには巻かれろ。」と、衝動的に吸ったタバコ。今まで守ってきた純情は、煙たくて吐き気がした。白紙で出したテスト用紙。「好きこそ物の上手なれ。」と、燃やした国語の教科書。私の心を揺さぶる小説家たちも、所詮私と同じただの人間だと気付いてしまった。君に褒められたくて背伸びして買った黒いレースのパンティは、こっそり君が好きなあの子のスクバに入れておくね。「魚心あれば水心」後悔すればいいんだよ。君はレースのことばっかり考えてたよね。性春。私の人生観なんてほんとにくだらない。でも、巻かれることをやめた瞬間、吐き気もレースも要らなくなった。きみのために新しく買った花柄のロングスカート。もう、レースなんて必要ない。

哲っちゃんは、すごい!

身体は二面性ある。それは、内面と外面。内面は、言葉や洋服として外面となりえる。つまり、内面は他者から覗かれてしまうという感覚。しかし、内面と表情的意味は一致しないことがある。例えば、心の中では貰ったプレゼントを好みではないと思いながらも、笑顔を浮かべるなど。しかし、動物(ペット)や言葉を持たないものは内面と表情的意味の不一致はないと考えられている。だから、ペットや赤子は無条件に可愛い!って思っちゃうよね〜!!みたいなことを考え出した哲学者はすごい!

この知識あってるか知らんけど、ニュアンスはこんな感じ☆哲学者はすごい☆☆内面と表情的意味が一致させることを約束して、理解して、容認しあえば、それは信頼になるのかな☆☆☆てっちゃん、教えて〜!!

【悔】1000字にならなかったブログ。

誰かのものをcopy and pasteしてたって、それはどこまでいっても劣化版にしかなり得ないし、そんなんじゃ誰の心にも響かないってことを知った。でも、最初はcopy and pasteで見よう見まねで体得していくことが大切で、だから、画家は模写するのだと思う。capで満足してしまってるうちは、その程度にしかならない。模写に物足りなさを感じたら、自分の心で創造したものにしか満足できなくなり、もっと火傷できると思う(クオリティーは別として)。

もちろん、初めはいわゆる作品みたいなものを知り合いに見せるのが恥ずかしかった。いわゆる裏垢で叩かれてるんじゃないかな…とか。でも、知り合いにしか見せる相手がいなかった。いくら、インターネットの輪が広がっているとはいえ、私の価値観(作品)を最後まで見てくれる人に届くかは分からないから、そうするしかなかった。怖かったけど、意外な人から作品を“褒めてもらえる”ことがあって嬉しかった。

そういう機会を通して、本当にこのままでいいのかって不安になってしまい、ここ(軟体動物物語)に来た。今の大学に4年間通って、私は当たり障りのない“ほめられる”仕事に就くのかな。人間は保守的だから、仕方ないよって自分のこと慰めてるのかな。逃げただけだって誰か私に後ろ指を差してくれる人はいるのかな。本当にそんな人がいたら自分が情けなくて嫌になるからやめてほしいけど、ちゃんと私のことを見ててくれてたって思うのかな。

夏休みになっちゃって、授業を受ける機会も無くなるし、撮影シ放題だし、私大丈夫かな。後期もちゃんと学校行けるかな。まあ、人間は保守的だから行ってると思うけど、ダサい後悔だけは避けたいです。

こんなに赤い気持ちにさせてくれた人たち、本当にありがとう。まず、私が浪人してたときも私のことを受け入れてくれた友達、つまりは受験が終わってすぐに色んなイベントに付き合ってくれた子、「そんなんで離れてく友達なんてどうでもいいよ」って背中を押してくれた憧れの人、同じ世紀に巡り会えて本当に良かったって心から思う人たちです。

褒められると迷っちゃうから、困っちゃうけど、褒められると嬉しくて、ほめられたくなくなっちゃって、頑張れる気がしちゃうから感謝を伝えちゃうって感じでした。